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Sorry,everyone,今晚酒館主人又喝醉了。

雖然禁酒已久,但近日卻頗有微醉的茫酣,特別容易傷感、懷舊、想一些有的沒有的
……那些被我翻出來的、半夜騷擾的童年玩伴們,雖然我酣醉,但可確定告訴你們:你們的身上沒霉味!你們還是青春且充滿魅力的──我斟酌許久,思考你們會喜歡活力?魅力?還是財力?……我喜歡魅力,我需要魅力,我嚮往魅力。

然而經常我最感到的還是無力;雖然你們帶給我一點點溫暖,一點點感傷,證明我依然還是沒長進,還是會因為聽見熟悉的聲音而莫名掉淚、想起往事,任何一朵再細微的眼神都被我放大解讀了……

……因為想起你們,我執意今晚要放這首歌,它代表我曾經比青春更年少些的那段歲月,在校外空地上、市場旁的冰店裏、小巷道或其他什麼地方,老實說,我真的什麼事也沒敢做,甚至往天空狂吼一聲或朝地面唾口口水的勇氣也沒有,所以我無聊地踢著路面上的小石頭、沿路等待著什麼事突然發生卻都沒發生地回家……

我超喜歡這首歌。尤其當現在的我還在街上遊蕩徘徊時……

我還是當年無聊而狂妄的少年。

 
  圖:到日本時,特地買的單曲CD

    歌曲:路地裏の少年
    歌手:浜田省吾
    作詞:浜田省吾
    作曲:浜田省吾
    
       
    真夜中の校舎の白い壁に
    訣別(わかれ)の詩(うた)刻み込んだ
    朝焼けのホームにあいつの顔
    探したけど涙で見えず
    「旅に出ます」書置き机の上
    ハーモニカ  ポケットい少しの小銭
    ああ   さよならの意味さえも知らないで
    ああ   わけもなく砕けては手のひらから落ちた
    あれは俺16遠い空を憧れてた路地裏で


    アルバイト電車で横浜まで
    帰るころは午前0時
    古ぼけたフォークギター窓にもたれ
    覚えたての「風にふかれて」
    狭い部屋で仲間と夢描いた
    いつかはこの国目を覚ますと
    ああ   裏切りの意味さえも知らないで
    ああ   わけもなく砕けては手のひらから落ちた
    あれは俺18肩窄(すぼ)めて待ち続けた路地裏で


    赤茶けた工場(こうば)の高い壁に
    倒れかけた帰り道
    家を出て初めて故郷(くに)の母に
    「元気です」と書いた手紙
    恋に落ちて戸惑う熱の中で
    いつしか二人で過ごす夜毎に
    ああ  「やさしさ」の意味さえも知らないで
     ああ   わけもなく砕けては手のひらから落ちた
    今は俺21初めて知る行き止まりの路地裏で


    口づさめば悲しい歌ばかり
    届かぬ想いに胸を痛めて
    ああ   今日もまた呼ぶ声に応えては
    ああ 訳もなく砕かれて 手のひらから落ちて
    今はおれ22初めて知る行き止まりの路地裏で


             
       原裝單曲版「路地裏の少年」




 






浜田省吾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

浜田 省吾(はまだ しょうご、1952年12月29日 - )は、広島県竹原市出身の日本のシンガーソングライターロックミュージシャン。O型。広島県立呉三津田高校(野球部所属)卒業、神奈川大学法学部中退。

1975年愛奴のメンバー(ドラムス)としてプロ・デビュー。デビュー時からサングラスがトレードマーク。1976年にソロ・デビュー。メディア露出が極端に少ないものの、地道なライブ活動によって確実にファンを獲得。デビュー後数年間は、事務所からの方針により自らが目指す方向性を屈折させられ逡巡していた。その為、初期の頃は自分の生き方そのものへの懐疑を投げかけた楽曲が多く存在する。一般的に認知されているバラード楽曲の他にも父親の被爆体験から、日本や戦争を歌った楽曲も数多く存在し、いわゆるビッグネームの中では最もプロテスト色の強いアーティストである。また、ロック=英語という既成概念に疑問をもち、日本語による歌詞や歌唱にこだわった。このことは、以降のミュージシャンにも少なからず影響を与えた。

山口百恵和田アキ子能瀬慶子甲斐よしひろ松田優作時任三郎吉田栄作等に楽曲を提供している。 愛称は「浜省」または「省吾」。


来歴

  • 1972年神奈川大学法学部に入学する。まだ学生運動が盛んな時代で、大学はロックアウトされたり、ストライキで休校されることが多く、こんな大変な時に親からお金を送ってもらう意味が無いと感じる。
  • 1973年、音楽にのめり込み大学中退。下宿を引き払う日、下宿前にあった大学構内で神奈川大学のセクトと他から来たセクトとの激しい内ゲバが発生。火炎瓶が飛び交い、学生達は傷ついてキャンパスに転がり、多くの死傷者を出した暴動を朝まで見た。広島に戻り「広島フォーク村」の音楽仲間と共に愛奴を結成。愛奴ではドラムを担当。デパートの屋上やこの頃は地元のテレビで演奏したりした。
  • 1974年、再び上京し、吉田拓郎の全国ツアーのバック・バンドに愛奴(ドラム担当)として参加。それまでドラム経験はほとんどなかったが、必死で練習してツアーに間に合わせた。同年7月発売のよしだたくろう・かまやつひろしのシングル「シンシア」のB面「竜飛崎」は愛奴の演奏である。
  • 1975年に愛奴としてアルバム『愛奴』、シングル「二人の夏」でレコードデビュー。当時CBSソニーでは大量にプロモーションを行い、浅田美代子の「赤い風船」(セールス80万枚)を上回る100万枚以上のセールスを見込んでいたというが、実際には全く売れず惨敗という結果であった。バンド内での自分の存在や、シンガーソングライターへの憧れもあり、同年9月に愛奴を脱退。愛奴の全シングルA面は浜田省吾が手掛けており、当時からソングライティングの意欲、素質を備えていた。
  • 1976年4月21日にアルバム『生まれたところを遠く離れて』、シングル「路地裏の少年」でソロデビュー。ロック志向の自身にとっては不本意ながら、予算の都合上、生ギター本のスタイルで全国ライブ巡業を開始。直後に矢沢永吉フィルムコンサートの前座を務めた。また当時アイドルだった竹内まりやの前座を務めた事もある。他にも歌わせてもらえる所ならどこでも、レコード店の店頭はもちろん、スーパーマーケットの催し、果ては演歌ながしのようにバーのカウンターの中でも歌った。この頃全国巡業での観客は30人から多くて200人程度で、描いた夢にはほど遠かった。70年代はセールスに恵まれなかったものの、着実な楽曲制作と地道なライブ活動によって確実にファンを獲得していく。
  • 1985年7月27日‐28日つま恋多目的広場での吉田拓郎オールナイト・コンサート「ONE LAST NIGHT in つま恋」で愛奴が再結成され、「ひらひら」「野の仏」「シンシア」の3曲でドラムをたたく。その際吉田拓郎から「浜田、前よりドラムうまくなったな」と言われる。
  • 1986年に発売された2枚組アルバム『J.BOY』が初のオリコン・アルバムチャート第1位(5週連続)を獲得。
  • 1990年、「誰がために鐘は鳴る」を発売。それまでの疾走感あふれるロックから、内省的な曲作りへと移行する。
  • 1992年テレビドラマ愛という名のもとに」の主題歌として発売されたシングル「悲しみは雪のように」(1981年リリース曲のリメイク)が初のオリコン・シングルチャート第1位(8週連続、通算10週)を獲得。200万枚近いセールスを記録。同時に、過去にリリースされたアルバムが多数チャートインするなど、空前の浜省ブームとなる。しかし、本人はこの時期軽い鬱状態になり、全くメディアに出てはこなかった。
  • 1995年、シングル「我が心のマリア」発表。カップリングの「恋は魔法さ」は神戸を舞台にしたラブソングで、その年に発生した阪神・淡路大震災の復興を願い、印税収入を寄付。このシングルは事務所の後輩であるスピッツ区麗情らとともに制作。
  • 1998年には20世紀から21世紀をまたぐツアー「ON THE ROAD 2001」が4年がかりの構想でスタート。全国のホールやアリーナ、そして野外コンサートがスケジューリングされた長いツアーが敢行された。このツアーでは127ヶ所196公演を数え60万人もの観衆を動員。
  • 2001年、本人が制作に参加する形で、NHK地上波BSBS-hiで自身の音楽活動を広く紹介する番組が放映された。
  • 現在もツアーやレコーディング等、音楽活動を精力的に続けており、2006年松戸を皮切りにON THE ROAD2006-2007をスタートさせている。

  エピソード

  • 広島出身ということもあり、大の広島カープファンで、ステージ上でカープの帽子、ユニフォームを羽織った。
  • 初めて日本武道館公演が決まった時、ヒット曲を持たなかったため、お客さんが入ってくれるのか、プレッシャーで押しつぶされそうになった。更に音楽評論家の大貫憲章が、「ゲス・フー*は100人くらいしか入ってなかったよ」と言うので更に大きなプレッシャーがかかった。結果はチケットが15分で完売するなど、大成功を収めた。

※ゲス・フーとは「アメリカンウーマン」の大ヒット曲を持つカナダのバンドで、有名なザ・フーとは違う。

  • この時にアンコールで演奏した「ラストダンス」を近年行われたツアー「ON THE ROAD 2001」の最終日に再び武道館で演奏。久々に歌われた事と、当時のバージョンと全く同じアレンジ、演出で演奏された為多くのファンは感極まった。これは同ツアーを追ったDVDにも収録されている。
  • 同じく武道館でのアンコール曲「Midnight Blue Train」では、歌いだしてすぐにギターが足元に落ちるというハプニングがあった。ちょうど「ギター抱えて 夜汽車に揺られ」という箇所で、浜田は外れたギターを胸に抱えて歌った。コンサート直後ゲスト出演した烏丸せつこのラジオ番組NHKサウンドストリート」で、このことが話題になり、ストラップがきちんと留まっていなかったようだ、と原因を語り、「歌詞の内容と合っていたから演出かと思った」という烏丸に対し「まさか(笑)」と答えていた。このギターが床に落ちた音は、LIVE盤『ON THE ROAD』で聞ける。
  • 烏丸はビートたけしが最初に噂になった女優で、甲斐よしひろとも噂があったが、浜田と烏丸もけっこう親しくしており、女性週刊誌でも地味に話題になったりもした。烏丸のアルバム『キス・ミー』(1981年)に浜田は「Dancing Doll」「バラード」の2曲を提供している。次のアルバムでは「街角の天使」をデュエットするという話もあったが実現されてはいない。
  • 「街角の天使」はもともと大貫妙子とのデュエット曲として録音されたが、結局そのテイクは没になり、浜田のボーカルのみのテイクがアルバムに収録された。
  • 無名だった頃、ギターを持ってタクシーに乗ったとき「ミュージシャンなの?」と運転手に聞かれて、「はい、実は浜田省吾っていいます」と答えると運転手は「あぁ知っているよ。サングラスしていたから分からなかった」と答えたそうだ(浜田はこの手の話をライブで披露するが、相手が警備員のパターンもあり、この話を浜田のネタと捉えるファンも多い)。
  • メディアとは距離を置いているが、かつてラジオ番組「セイ!ヤング」(文化放送)で、1980年に約1年間ほどDJを務めていたことがある。音楽の話はもちろん、野球ネタや映画ネタ、そして当時のバンドの生ライブなどで人気となった。他にもかつてニッポン放送吉田栄作が浜田の大ファンだった経緯もあって、当時吉田本人が持っていたラジオ番組「吉田栄作Take Off」に出演したこともある。
  • この時の事をのちのインタビューで述べている。朝から音リハ・カメリハを2時間待ってはもう一回と何度も繰り返しほぼ丸一日、ワンルーフ(1番とサビ一つの2分くらい)2分を歌うための拘束時間は10時間ぐらいだったという。結局これを含めて『ヤングおー!おー!』に3回、『夜のヒットスタジオ』に2回、計5回のテレビ出演がある。
  • 近年は若い女性アーチストも、早いうちから曲作りを始めることが話題となるが、浜田が本格的に曲作りを始めたのは、神奈川大学に入ってから、20歳の頃である。それまでは、作詞を浜田が手掛け、作曲は町支がしていて、自分に曲が作れるという発想があまりなかった。夏の暑い日、大学の正門の前にあった下宿で、好きだったザ・ビーチ・ボーイズの『サーファー・ガール』に影響をうけ『二人の夏』を作り、町支らに聞かせるとブリティッシュロックしか聴いたことのない彼らは、初めて聴くウエストコースト風のサウンドに「いいよ、これはいいよ」と絶賛されその気になった。あの時町支らがけなしていたら曲作りは止めていたかも知れないと言う。
  • その『二人の夏』のドラムをたたいているのも浜田だが、何と貧乏の極みでドラマーなのにドラムセットを持ってなく、レンタルドラムでレコーディングに挑んだ。更に自分で作った歌は自分で歌おうと初めてヘッドホンをして自分の歌を聞くと音痴だと気付いた。苦労して苦労して録音したという。
  • 自分の初期のシングルやアルバムに対して、あまり良い印象がないことを隠そうとしない。「初めの頃のは全部廃盤にして欲しいぐらい」と語ったこともある。
  • 70年代後半の長い下積み時代、小さな街で300人ぐらいを集めてのライヴに全精力を使い果たしてホテルに帰ってテレビを付けると「ザ・ベストテン」をやっていて、あとからデビューした人達が、何10万枚とレコードを売って歌う姿を見る。テレビという巨大な主流・メインカルチャーに対して、ライヴはカウンターカルチャーだっと思う。テレビからこぼれ落ちた大切なものを僕達はていねいにすくって、大切に育ててきた、という自負をインタビューで述べている。
  • 若いとき、音楽評論家・渋谷陽一のラジオ番組にゲスト出演。このとき議論が白熱し浜省がブチ切れ「結局なんでしょ あんたたちゃぁ 人の作ったものにケチつけてメシ喰ってるんでしょうが!」と面と向かって毒づいたことがある。これに渋谷は「はい、そうですよ」と答えた。その後、渋谷は自身の発刊するロック誌で何度も浜省の特集を組むなど、今日に至るまで長きに渡り浜省を支援し続けている。渋谷自身、プライベートでも付き合いがある唯一のアーチストと述べている。
  • 尾崎豊福山雅治桜井和寿ら浜田に影響を受けたと言う後輩アーティストに会う時は、彼らの曲を事前にちゃんと聴いて、暖かいアドバイスを贈っている。言葉は「どんな事があっても歌い続けることだよ」と言う内容のようである。
  • 1986年の名作「J.BOY」のアルバムタイトルは、のちの「J-POP」、「Jリーグ」という言葉を誘発したとされる。初のチャート1位に輝いた「J.BOY」まで、プロデビューから12年の歳月が流れていた。
  • ライブでは味のある話をすることで知られる。例として、渋谷に久しぶりに行った際に、電気屋に行こうとしたら昔あった場所にない。遠くに「電気」の看板が見えたのでそこに移転したと思って近づくと、そこは東京電力のミュージアムである電気館だったというオチ。
  • 「南海日々新聞」にて(~久々の大物歌手が名護で公演するチケットの売出し日・・・中略・・・全盛期を過ぎており、まさかここまで根強い人気があるとは~)と掲載され、ステージで早速、笑いのネタにする。後日、新聞に(あの一言は撤回します。素晴らしいコンサートでした。)と記事が掲載される。
  • コンサートでは、お客さんの年齢層を毎回確かめている。(10代の人手を叩いてみて、というように)
  • コンサートで「HELLO ROCK & ROLL CITY」を唄うときは、歌詞の一部(都市名)をコンサート開催地に変えて唄う。
  • 2000年、黒磯でのコンサート中、開始二曲目で「脹脛断裂」してしまう。しかしコンサートをやり遂げる。ワイドショーでもニュースになったほどである。しかし、このニュースで流れた映像が昔のもので、バックに流れたのは「風を感じて」であった。本人はこのことが一番ショックだったと語っている。 



 
ディスコグラフィー

  アナログシングル

愛奴時代1975年5月1日二人の夏(b/w雨模様) EP   
愛奴時代1975年9月1日恋の西武新宿線(b/w愛奴のテーマ)EP  
1st1976年4月21日路地裏の少年(EP用)(b/w壁にむかって(EP用))EP  
2nd1976年10月21日愛のかけひき(シングルバージョン)(b/wキャンパスの冬)EP  
3rd1977年4月21日ラブ・トレイン(b/w君に会うまでは)EP  
4th1977年11月21日 木枯しの季節(b/w独りぼっちのハイウェイ)EP  
5th1978年8月21日涙あふれて(b/wあの頃の僕)EP  
6th1979年4月21日愛を眠らせて(b/w片想い)EP  
7th1979年8月21日風を感じて(b/w朝のシルエット) EP  
8th1979年12月21日さよならにくちづけ(b/wミス・ロンリー・ハート)EP  
9th1980年2月21日青春のヴィジョン(b/wとぎれた愛の物語)EP  
10th1980年7月21日明日なき世代(シングルバージョン)(b/w演奏旅行) EP  
11th1980年10月21日東京(b/w火薬のように)EP  
12th1981年3月21日陽のあたる場所(b/wあばずれセブンティーン) EP  
13th1981年8月26日ラストショー(b/wさよならの前に)EP  
14th1981年11月21日 悲しみは雪のように(b/wセンチメンタルクリスマス)EP  
15th1982年2月25日ON THE ROAD(b/wラスト・ダンス (ライブバージョン)) EP  
16th1982年11月21日マイホー
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